サステナブル・フード・ラボ(小田理一郎さん)

サステナブル・フード・ラボとは

いま食の分野で、5大陸をまたいだ大きな変革へのうねりがある。

70億人を越えてもなお増大し続ける人口と肉食嗜好へのシフトを賄うだけの食糧の不足、効率的な食糧生産で置き去りにされる環境負荷の増大、経済の発展から取り残され過酷な労働を強いられる小作農家など、食に関する問題は世界で枚挙に遑がない。これらの問題を、生産や流通、小売りなど、食に関わる全ての業界を巻込み、改善していく試みがサステナブル・フード・ラボ(以下SFL)だ。SFLのメンバーは米国、欧州、中南米の約70あまりの企業や団体の代表で構成され、その中には環境NGOや政府機関も含まれる。SFLの活動の一つとして、ラーニング・ジャーニーと呼ばれる企画がある。これは企業や団体の代表であるメンバーが北米や中南米の農業の現状を視察し、現場の農家や他の参加者と対話する中で、自分は世界の食の問題に対してなにができるかを改めて考え、他団体と恊働で問題に取り組む下地をつくる企画である。その他にも食糧システムの環境負荷への評価方法や、小作農家の収入増をもたらすサプライ・チェーン(生産から消費までのプロセス)の仕組みなどテーマごとに勉強会が開催され、そこに関心のあるメンバーが参加して知見を深めながら各団体間のネットワークを強めている。ラーニング・ジャーニーや勉強会などのSFLの取り組みでは、それまで話し合う機会すらなかったNGOの代表や大企業の経営層、食に関する専門家が、互いの立場を認め、その違いを越えて関わり合うため、農業生産時における化学物質使用量の大幅な削減やサプライ・チェーン全体での温室効果ガス排出量の大幅削減など、食糧問題の改善や環境の負荷低減のための多くの創造的なイニシアチブが生まれている。

サステナブル・フード・ラボのおこり

世界規模で大きなうねりとなっているSFL。その始まりは、2002年に遡る。組織論の第一人者であるピーター・センゲさんは、大企業の会長やNGOの代表などが集まるダイアログの会を度々設けていた。経済のグローバル化とともに、そこで起こる課題はますます複雑化していく。そういった課題に対処するためには、関係するセクターが起きている課題を深く認識し、そしてその解決に向け協働で取り組まないといけない。その想いで、ピーターさんは会を開催していたが、参加者たちは課題の重要性を理解しながらも、解決に向けた行動を起こせずにいた。そのギャップに悩んでいたピーターさんは、会の参加者であった世界的な食品企業であるユニリーバの会長と貧困問題に世界的規模で関わるNGOのオックスファムのCEOを誘って、バーモント州にあるサステナビリティ研究所のハル・ハミルトンさんのもとへ立ち寄った。ハルさんはいま地球上で起きていること、そしてユニリーバやオックスファムが直面している課題の全体像や、その根本的な原因を2人に説明した。ハルの説明を聞きながら、解決に向けてセクターを超えた協働が重要であると考えた両者は、手を組み、共通の課題の解決に乗り出すことにした。ピーターさんたちが始めたこの新しい動きには財団からも支援金がつき、さらに他の大企業やWWF(世界自然保護基金)などの世界的なNGOも加わり、2003年にサステナブル・フード・ラボ(SFL)となって活動を開始した。

一通のチェーンメール

ピーターさんがダイアログの会を開催し始めた前年の2001年、小田理一郎さんは会社のオフィスのパソコンで一通のチェーンメールを受け取った。それは、「If the world were a village of 100 people(もし世界が100人の村だったら)」からはじまる文章だった。「もし世界が100人の村だったら、86人が読み書きでき、14人ができない」「もし世界が100人の村だったら、1人は大学教育を受けており、99人は受けていない」「もし世界が100人の村だったら、30人が十分な食事ができ、そのうち15人は太り過ぎ。20人は栄養失調で、そのうち1人は飢えで死んでいる。50人は安全な食糧が手に入らず常にお腹を空かしている」その文章は世界の現状について誰かを責めることなく、ただ淡々と事実を伝えていた。

小田さんは、会社を辞めることにした。メールを読んで、このまま会社員を続けている場合ではないと思ったからだ。退職後、環境系のNGOで働こうと色々探しまわったが、なかなかよい機会が見つからずにいたところ、2002年8月に環境ジャーナリストの枝廣淳子さんが、ジャパン・フォー・サステナビリティーという日本の環境情報を世界に発信させることを目的としたNGOを立ち上げたことを知り、「新しいNGOなら色々と必要としているのではないか」と、コンタクトをとった。

サステナブル・フード・ビジネス研究会での取り組み

小田さんは、いまSFLをインスピレーションとする、サステナブル・フード・ビジネス研究会(以下研究会)を日本で開催している。世界中で拡がるSFLだが、いまだ日本企業の参加は1社もない。研究会は、日本企業がSFLに参加する前段階として、世界で起こっている事例の紹介や、NGOなどの他セクターとの交流の機会を創り、企業側の意識を高め、日本において食料サプライ・チェーン・システムの改善を起こしていくことを目的に置いている。

研究会の主な参加企業は食品業界や飲料業界の約10社で、小田さん自身による海外企業の環境に対する取り組みの紹介や、WWF(世界自然保護基金)の生物多様性の専門家や、飢餓のない世界を創るための活動を行うNGOハンガー・フリー・ワールドの職員、また投資銀行の途上国への投資に関する専門家をスピーカーに呼び、世界で起きている事例や動き、国内の業界に関する課題などの話をしてもらい、参加者同士のダイアログをおこなっている。研究会は、農水省から職員がきたり、スピーカーとして参加したNGOの職員が企業の担当者と交流をもったりと、日本にはあまり前例がない取り組みに進展してきている一方で、問題も多く抱えている。ちょうどピーターさんが、SFLを始める前ボストン郊外でダイアログの会を開いていたとき、変革の必要性を理解しているが行動に移さない企業に悩んでいた様に、小田さんも、研究会での取り組みが実際の企業同士や他セクターとの恊働や、企業内での新しい取り組みに結びつかない問題にいま直面している。

小田さんがSFLを日本でやろうと決めたのは、SFLのもう一人のリーダーであるアダム・カヘンさんが日本でおこなったワークショップに参加したときだ。彼のワークでいまでもはっきりと覚えているものがある。アダムさんはこう語りかけてきた。「あなたがもっとも重要と考えるジレンマを、もし受け容れるしか手がなかったらどうするか」「何を手放すのか、そして何をやるのか」。彼からはただ問いかけられているだけだが「なるほど、自分はこれを手放して、これを掴もう」と、自然と腹がくくれた。それまでも、SFLへの参加を説いて、食品業界の関係者との対話を続けていたが、自分ができる範囲でまず始めようと、研究会をたちあげたのはその後押しがあったからだ。小田さんはある食品企業に話を持ちかけた。一社で出来ることには限界がある。もっと業界レベルで取り組んでいかないと本当に意味があることはできないのではないか。そう話すと、大手企業の担当者も同じように考えていたことが分かった。利害関係のない第三者である小田さん中心となって、研究会を立ち上げた。

ドネラ・メドウズという存在

SFLはピーターさんがアクションを起こして始まったが、それは彼の親友であるドネラ・メドウズさんからの呼びかけに応えたものだった。ドネラさんは世界のサステナビリティの諸課題、とりわけ食糧問題に力を入れてバーモント州で農業を営みながら草の根活動を続けていた。2001年暮れのある日、彼女はピーターさんに電話し、メッセージを留守録に残した。「NGOや政府だけでやってもこの食糧問題は絶対に解決しない。企業と一緒にやらないと解決出来ない。ピーター、あなたの助けが欲しい」。ピーターさんが後日そのメッセージを聞いた時には、彼女はもうこの世になかった。ピーターさんは今もSFLの活動を無償で続けている。それは大親友であったドネラさんの呼びかけに精一杯応えるためだ。そして、小田さんの人生の方向を大きく変え、今の取り組みに至るきっかけとなった「もし世界が100人の村だったら」というチェーンメール。この文章もまたドネラさんによるものだった。

    • 「昔の人がこう言いました。我が身から出るものはいずれ我が身に戻り来ると」
    • 「お金に執着することなく、喜んで働きましょう」
    • 「かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう」
    • 「誰も見ていないかのごとく、自由に踊りましょう」
    • 「誰も聞いていないかのごとく、のびやかに歌いましょう」
    • 「あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう」

(「もし世界が100人の村だったら」から一部抜粋)

胸に宿り続けるドネラさんの意志と共に、小田さんの挑戦は続いていく。