【第三の道】「響き」のリーダーシップ 〜 あなたは本当の自分の声から生きていますか 〜 楠瀬 誠志郎 x 由佐 美加子

声の世界、音の世界

普段何気なく使う、「声」という単語。私たちは、まるで声というなにか固有のものがあるように思っている。だがその正体は、実は「音」だ。音はどこにでもある。お茶碗を洗う、その些細な音から辺りに轟く落雷の音まで、あらゆる音が身のまわりでさざめき合っている。声もその一部なのだ。

声の実体は音であるが、一方で、私たちがいつも話し言葉として使っているのはやはりあくまで「声」だ。雷は、雷が鳴りたいように鳴っているが、私たち人間は己に宿る音を、それが鳴りたいように鳴らせてはいない。

声と音の違い。楠瀬さんは、声は言語的なもので、音は感情をつかさどるものだと説明する。私たちがこの世に生を受け最初に聴いたのは、「音」だった。それは胎児として子宮にいるとき、羊水を通じて響いてくる母の心音や呼吸音。胎児は音を通して、母の感情や想い、体のぬくもりを身体で感じていた。しかし、「声」は違う。自らの考えを、言葉を並べて相手に理解してもらうためのもの。心で通い合うのではなく、相手と自分との隔たりを前提としてる。さらに言えば、幼児期に持ち合わせていた音の感覚が自らの内から自然と溢れてくるものであったとすれば、声とは、ときに環境に合わせ、ときに自分を覆い隠すために身につけたスキルなのだ。私たちは、子宮から離れ実社会で生きるうちに次第に音の感覚を失い、代わりに声を見出していった。

音と声、それはつながりと分断の象徴でもあり、自分らしさと迎合を分かつものでもあるのだ。

楠瀬さんは、後天的に身につけてしまった「声」(言語)を、個々人が持つ本来の「音」(非言語)へと戻すサポートをしている。

声楽家である父のもとに生まれた楠瀬さんは、シンガー及び作曲家としてデビューした後も独自に発声学に基づくボイストレーニングの研究を続け、音に還るメソッドを探求した。そして、歌手のためのボーカルトレーニングではなく、より多くの人が「本当の自分の声」を響かせられるようにと、表参道にBreavo-paraというスタジオを設立した。

楠瀬さんのボイストレーニングは、まず身体をゆるめるストレッチから始まる。声は、骨の振動、つまり「響き」によって生み出される。骨をもつ生物はすべて音を出す、と楠瀬さんは言う。骨の周りの筋肉が硬くなっていれば、骨は十分に振動することができない。身体をゆるめ弾力を持たせることで、骨の振動幅は広がり、身体が持っている本来の響きが阻害されずに外側へと伝わるようになる。ゆるめた後は、骨をきちんと振動させる発声の仕方を練習していく。言葉にならない音を内側で震わせ、それを身体が熱く蒸していくまで「反復」する。

この反復を繰り返すことで、音に言葉を乗せても振動が滞らずに響く身体を少しずつ作り上げていく。「反復」することは一見単純に見えるかもしれないが、実はその反復の動きによって深みが生み出され、その深みによって次元が変化して進化が生まれる。レッスンで楠瀬さんが創り出すプロセスはこの「反復」のデザインであり、それは決して筋肉を「鍛える」ことではなく、逆に筋肉をゆるめて「弾力」を取り戻すことが本質であるという。この肉体(ハード)の弾力性によって響きが変わっていくのだ。

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音による空間の創造

声が音であるならば、私たちは音を発することでなにをしているのだろうか。一つは伝えたいことを音に変換して相手に理解してもらうという、誰しもが日常的に意識せずに行っていること。そしてもうひとつ。音を出すということは、気づかないうちに自分と相手との間にある空間を創りだしている。

音による空間の創造。今でこそあまり実感を持てない感覚だが、私たち東洋人は、西洋人に比べてこのセンスが強くあると楠瀬さんは言う。

音における洋の東西の違いは、楽曲の構成に顕著に現れている。西洋は形式美をとても重視する。クラシックでは第一楽章から始まりフィナーレで最高潮を迎えて終わるという型や、13音階という決まった音階の中で楽章ごとにメロディーが奏でられていく。悲しみを表現するために、固有のメロディーがある。一方で東洋の音楽の特徴は、形式ではなく一定のメロディーの繊細な「反復」にある。そしてこの反復を繰り返したとしても同じものは2回とない。

音符にならない微妙な半音よりも細かい変化や、音の強弱によって感情的に多様で豊かな、そしてある種カオス的な表現になる。悲しみを表現したいときも、同じメロディーの中に悲しみの情感がこめられる。つまり、西洋は音符に意味を付与しているのに対して、東洋は音符と音符の「間(ま)」を通じて、意味を創造しているのだ。

歌とは音符と音符の間にあると楠瀬さんはいう。次の音に移る前の間にあると。「音」には、考えを伝える以上に空間を創る力がある。それは由佐にとっても身に覚えのあることだった。「お前の言っていることはよく分からない」と言いながら、支援してくれるという体験が過去に数多くあった記憶がある。それは、話した内容を理解してもらえたわけではなく、想いを「肌」で感じてもらえた時に起こっていた。

人が発する音、そこに振動があるとき、その波形を皮膚で感じてもらえたときに言葉の理解を超えて人と人とが共鳴できる空間を創るのではないか。楠瀬さんの話と自身の体験から、その考えが由佐の頭に浮かんだ。そしてその波形は、その人に流れる固有の生命エネルギーと、発した音の波動が合致したときに生まれるのではないか。しかし本来であれば、生命エネルギーと声として放つ音の波動は合致していたはず。なぜ、それは乖離してしまったのか。

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再び、自分らしさとつながりの中へ

楠瀬さんは、由佐の「音が出ている人はどんな人だと思いますか?」という問いに、「勇気がある」と答えた。音は生きる力、つまり生命力につながっていると言う。

なぜ人は「音」を失ってしまったのか。それは自分で音を出すことを抑えるようになったからだ。音を出すことは、自分らしく在るということ。しかし、自分らしく振舞うことに恥ずかしさを感じ、できるだけ周りの環境に適合して生きていくことをいつしか選んだ。そして周りとのつながりから切り離された存在として自分を捉え、自分は他人からどう見られているのか、どう思われているか、という不安を絶えず抱えながら、自分の考えを理解してもらおうと必死で「音」よりも「声」を知性で駆使してきたのかもしれない。

人が自尊心を持てず、社会との適合を求めてしまう裏には、社会に根深く浸透した支配構造からくる刷り込みがあるのではないかと由佐は考えている。権力者にとって、被支配層に自尊心がなく、罪や恥の意識を感じていた方がコントロールしやすい。自尊心を損なわせる手段として歴史上繰り返されてきたのは、人々から神を奪うことだ。八百万の神々を奪い、自分たち権力者を神とつながっている特別な存在として認知させ、人々が神とつながるためには、罪深き己を償う善行を積み重ねることだと諭す。人間社会の進化の過程で、こうした序列構造や被支配者意識が形成されてきた。

自分の「音」を取り戻していくことは、そうした集合意識に埋め込まれた無意識に作動する人々の罪悪感や恥の意識を払拭していける可能性を秘めていると由佐は考える。本当の自分の声につながるとき、内側に眠っていた自分の内側のエネルギーを体感できる。それは言葉で「あなたのここがいい」と言われるよりも、自分の生命力に直接的に純粋につながれる体験になる。そうした体験を通して自尊心や自分の軸を育めれば、たとえ周りからどうみられようとも、自分が自分の力につながり、自分として生きる強さを感じられるのではないか。

楠瀬さんが答えた「勇気」という言葉。そこには、人は「音」に還ることで自分らしさを取り戻し、自分の音を世界に響かせる道を歩みだせるという確信がこめられている。
(了)

※楠瀬さんが主宰されているBreavo-para様のブログはこちら

★この対談をきっかけに、Breavo-para様×CCCでイベントを行うことに決定しました!!★

CCC&Breavo-para コークリ講座☆10回シリーズ:
〜自分の「音」を思い出し、力を解き放って生きる〜」

お二人の対談を通して、
(頭から出す)「声」 から(身体を響かせて生きる)「音」への回帰
というキーワードが浮上しました。そしてその違いは「自己一致して表現する勇気」なのだと楠瀬さんは考えていらっしゃいます。

自分の力を全部出して生きてみたいなあとどこかで感じている方、身体表現から本来の自分を探求されている方、言葉ではなく身体からのアプローチで自分の思い込みの限界にチャレンジしたい方、ぜひご参加ください。

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